2006年度 2学期、火曜3時間目 2単位

授業科目 学部「哲学史講義」大学院「西洋哲学史講義」

授業題目「ドイツ観念論における自己意識論と自由論の展開」

 

        第10回講義(2007年1月16日)

 

■先週の講義についての学生のコメント■

三木さんのコメント:

「・・・Bでいう基準が「我々にとっての本質的なものであり、距離をとることができないものだ」といっている意味が難しくてよくつかめませんでした。」

杉之野原君のコメント

「@のような何の拘束も受けていない選択というのは、現実的に考えにくく、また我々の選択には一定の一貫性があるのでAのように我々の選択がデタラメとしてしまうのは極端に思われます。しかしBのように判断基準が我々にとって本質的だとしてしまうことにも疑問があります。我々は一つの本質的な基準をもつのではなく、複数の基準を持っていて、状況によって異なる基準をとるわけですが、どのような基準をとったとしても完全に満足することはまれです。これは、どんな基準も自分自身とのずれを含んでいるからだと思います。」

平野さんのコメント:

「・・・・・いっそのこと、最初から、自己が自己を決定すると簡単に考えてはどうでしょうか。a、とりあえずうどんを食べようと考える自己がいます。この自己を分析することで基準が出てくると考えるのです。味や値段をいろいろ考えてうどんに決めているわけですが順序を逆にして、味の基準や値段の基準によって、うどんに決めたと分析しているのではないでしょうか。b、そしてその自己の考えたように、自己がうどんのチケットを実際買うのです。c、人生の難しい問題は、自分の底に降りていくほど、何が基準がわからなくなり、自己が自己を決めているというのが真実ではないでしょうか。」

佐々木さんのコメント:

「「自由」の反対を「強制」と考えれば自由がどこにあるのか難しくなりますが、「自由」の反対を「無」と考えることも可能だと考えます。」

 

■先週の講義の補足

「テーゼ2への批判」のところで述べた@ABに、次のように補足しよう。

@もし、我々が、全くどのような拘束からも自由であるとすると、そのときには、何かを選択することが不可能になってしまう。なぜなら、選択するには普通は選択の基準が必要であり、ある事柄をその選択の基準として採用することを拘束されているとすれば、我々は自由ではないからである。(これについては、特に補足することはない。)

 Aもし、我々が全くどのような拘束からも自由であるとして、それにも関わらずに、選択が行われるのだとすると、その選択には基準がないのだから、いわば心の中でサイコロをふるようなでたらめな選択である。(ここではひょっとすると、「我々が選択が行う」と言うことができないのかもしれない。なぜなら、我々が心の中でサイコロを振って決めるのだとすると、そのときには我々は、・・・を決めるために、今からサイコロをふろう、と決めなければならず、この決定のための基準が必要になるからです。すなわち、我々が心の中でサイコロを振るという比喩すら適切ではない。心が何かを基準なくでたらめに決めるのだとすると、それは私の心臓が不随意に動くように、私にはどうしようもないことになるだろう。つまり、もはや「私が選択する」とか「私が決める」とか言えないことのように思われる。)

 Bもし@でもAでもないとすると我々は次のように考えることができる。我々の意志は全くどのような拘束からも自由なのではない。もしそうならば、@のように選択できなくなるか、あるいはAのように選択できたとしても、つまらないことになるからである。我々の意志は、ある事柄に拘束されており、それが我々の意志決定の基準になっている。この基準を採用するための選択は存在しない。このような基準があれば、我々は意志決定を説明できる。もしこのような基準があるとすれば、それは我々にとって本質的なものである。なぜなら、我々はそれに対して距離をとることができないからである。(なぜなら、もし我々がそれに対して、距離をとることが出来るのならば、そのときには、我々はその基準を選択する必要があり、その選択が何らかの別の基準によって行われていたことになるからである。少なくとも、最初の基準は、選択によって採用されるのでなく、直接に与えられているはずである。その意味で、それは自分とこの基準を切り離すことが出来ないのである。

しかし、我々は、どのような基準であれ、それを意識したときには、それから距離をとることが出来るのではないだろうか。もしそうだとすると、直接に与えられているような基準は存在しないことになる。したがって、@かAになる。

これを避けるには、我々に与えられている直接的な基準があり、それを意識してもなお、それから距離をとることが出来ないような基準が存在する必要がある。果たして、そのような基準があるだろうか。

そのような基準となる第一の候補は、同一律や矛盾律や肯定肯定式などの基本的な論理法則である。我々は、これらを意識して、これらを疑うことも出来るが、しかしこれらに従わずに思考することは不可能である。<サイコロを振るようにデタラメな様々な考えが心に浮かび、その中から論理法則にかなうものを選択する、あるいは論理法則に反するものを捨てることによって、心に浮かぶ考えを限定する>ということを、我々が思考するときに行っているように思われる。

第二の候補は、「自己同一性」である。自己同一性を保つように、心に思い浮かぶ考えや行為の中から選択を行っている。もちろん、自己同一性という規範を意識して、それから距離をとることはできる。しかし、自己同一性を放棄することは、自己を放棄することに等しい。

我々は「自己同一性」の二つの意味を区別することが出来る。一つは、人格の同一性の意味である。意識の流れや観念の集合などが、一つの人格をなしているといえることを、「人格の同一性」という。何をもって同一の人格であるというか、たとえば、昨日の私と今日の私が同一の人格であるといえるための条件は何か、このような問いにどのように答えるのであれ、我々は人格の同一性を保つべく、心にランダムに思い浮かぶ考えの中から選択を行っているのではないのか。

もう一つの意味は、単なる「人格の同一性」でなく、私の人生の、あるいはある期間の行為の「物語的な同一性」である。我々の行為や人生は、初めと中間と終わりからなる物語を構成しており、我々はそのような物語としてしか、自分の人生や行為を理解することができない。そのような自己理解を可能にするような仕方で、我々は心に浮かぶ様々な考えや行為の中から選択をおこなっている。

 

<<さて、今週の小レポートの問題です。「自由であるべし」という規範は、このような基準のひとつになるでしょうか? >>

 

 

§8 フィヒテの自由および道徳の超越論的論証(つづき)

2、論証のまとめ

フィヒテは、「私は私自身を、私自身として見いだす。もっぱら欲することとして見いだす」という自己意識から出発する。

 この「欲すること(wollend)」を自我以外のものを捨象して、純粋に取り出すと、「自発性(Selbsttaetigkeit)のための自発性への傾向(Tendenz)」あるいは、「絶対的活動性への傾向」となる。

 では、これをどのようにして意識するのかというと、それは感情としてではなく、知的な直観によって、思想として意識されるという。この思想は、つぎのような内容だといわれる。

「我々は端的に概念によって意識的に、しかも絶対的自発性の概念にしたがって我々を規定すべきである」

「知性はその自由を、自立性の概念にしたがって端的に例外なしに規定すべきである」

これが、「道徳性の原理」である。したがって、自己意識は、「自我が、自己を<端的に概念によって意識的に、しかも絶対的自発性の概念に従って自己を規程すべきもの>として意識する」という仕方でのみ可能になる。したがって、自己意識が成立するときには、つねに道徳性の原理の意識が成立しているのである。道徳性の原理を意識することなく、自己意識を持つことは出来ないのである。

「これ(道徳性の原理ないし概念)は、我々の自由を考える一定の思考形式、唯一の可能な仕方として、すでにそれ自体で、導出されている」(FW, IV,65

 

3、フィヒテの自由論

道徳性の原理の証明の中で、フィヒテは自由についてつぎのように述べている。

「何者かが、規定されているのではなく自らを規定するのであれば、君はそうしたものを自由であるとみなしたくなるであろう。」(FW,IV,35

「君は、何者かが自由だとして思考されることができるためには、それは自己自身を規定しなくてはならないと、要求する。外部から規定されるのであってはならないだけでなく、その本性によって規定されるのであってもいけない。」36

これは、はっきりと後のシェリングの自由論を批判するものである。これは、ヘーゲルの自由論をすら批判できるものかもしれない。では、この「自己」とは、何を意味するのであろうか。

 

「自己自身を規定するとされるものは、存在するにさきだって、つまり性質を、総じて本性を持つに先立って、ある一定の観点において存在しなくてはならない。」

「自由なるものは、知性として自己の実在的存在の概念と一緒になって、実在的存在に先だっている。そして自由なるものの内には、実在的存在の根拠が存する。」36

これは、実存が本質に先立つ、という実存主義の主張と非常によく似ている。

「知性だけが自由だとして思考可能なものである。そして知性は自らを知性としてとらえるということだけによって自由になるのである。」36

「自我がかの絶対的活動への傾向を自己自身として直観するときに、自我は自己を、自由だとして、つまり単なる概念による原因性の能力として、措定する。」37